2018-07-11 第196回国会 参議院 東日本大震災復興特別委員会 第6号
私の住んでいた郡山市は、福島第一原子力発電所からは六十キロメートルほど離れていますが、当時は同心円状に避難指示、屋内退避命令が広げられていき、徐々に放射能汚染地域が広がっていく恐怖におびえる毎日でした。それでも、国はより危険な地域から順次人を避難させてくれるものだと私は信じていました。
私の住んでいた郡山市は、福島第一原子力発電所からは六十キロメートルほど離れていますが、当時は同心円状に避難指示、屋内退避命令が広げられていき、徐々に放射能汚染地域が広がっていく恐怖におびえる毎日でした。それでも、国はより危険な地域から順次人を避難させてくれるものだと私は信じていました。
当時、本当に危険な状況にある国については、勧告などではなくて、渡航禁止命令ですとか退避命令のような強制的な措置というのはとれないのだろうかと思いまして、外務省に問い合わせたことがございました。
御指摘のとおり、この送信所が原発から十七キロの距離に位置しておりまして、三月十二日午後七時四十六分、退避命令が出たため職員が避難しまして、通常は職員が、昼間であれば四名、夜間であれば二名常駐して送信をやっておりますが、そこにおれなくなったということで送信を停止しているということでございます。
しかも、ダブルスタンダードがあって、なぜ、日本、先進国の例えば退避命令されている二十キロとアメリカの八十キロ、イギリス、ヨーロッパ、こんなにも違うんだということをしっかりと発表されていなくて、明確に皆さんに伝えてないことじゃないかなと思うんです。是非そこら辺の対策をお願いできればと思います。
屋内退避命令が出ておるんですけれども、屋外には出るなと。しかし、水道水もない。避難命令は出ていませんけれども、どうしようかと。そして、いわき市へこの飯舘村のもう一つの施設は入所者を移送しました。バスで移送したものですから、どうですか、本当につらいつらい、亡くなりました、御存じのとおり。
今お話しの中で、バグダッド市内に、よほどの任務であるならともかく、確たるものがない中でいる旅行者、観光等々に、退避命令というのはたびたび出ていると思いますが、それにもかかわらず、何となく興味本位で行かれるというのは、これは、関係者はもちろん、家族は無論、いろいろなところにいわゆる多額の経費を要することでもありますし、それによって振り回される方々も、自分の本来の業務以外のことということになりますと、いろいろな
ただ、もう一つ申し上げますと、国が退避命令を出したわけじゃございません。村長が退避命令を出しました。
申し上げたいことは、もちろんやはり邦人でございます自衛隊員の方々がきちっと、武装した兵隊たちに襲われたときに退避命令というようなことで退避できないときに、本当にきちっと攻撃できるということを国会の場で明言いただきたいということでございました。
しかも、何時間にもなって、夕方になってから退避命令が出たと。その間にもう相当の人が、亡くなった人もおるし、汚染された人たちもおるんでしょう。そういうのをずっとさかのぼっていったら、一体だれの責任だったのか、これは。しかも学術会議やいろんな会議があっていながら、さっと行かない。
ただ、今思えば、今回の事故の際の十キロ圏内への屋内退避命令は、総理大臣の陣頭指揮のもと、政治主導で速やかな対応がなされたことは評価に十分値する、そのような確信をして戻ってまいりました。 ところで、中曽根弘文大臣、御就任おめでとうございます。いや、御苦労さまでございます。
これはセベソの方ではそれこそまさに住人は退避命令、退去して対応していったわけですから、そう言いかねないぐらいの状況であった。そういう深刻な状態であったということをまず御認識いただきたいと思います。
煙が出てまいりますと、当然セルの中にございます放射能も外に漏れ出してくるわけでございまして、そういう影響等も考えまして、十時三十分過ぎには退避命令を受けまして全員がその施設から退避をしておるわけでございます。 現場では、既にべータダストモニターの吹鳴等がございまして、空気汚染が発生しているということもわかっておりました。
○中野参考人 その点についてのみということでございますが、ああいう放射性物質を扱っております管理区域でございますので、一度退避命令が出ますと、その後続いて入るときには、特殊作業の届け出とかそういったことを、簡易的にではありますけれども、やるわけでございます。したがいまして、そのままもとに戻って見るということもできません。
実際に起きましたのは十時六分でございまして、消火に入りましたのは十二分でございますから、その間消火をやったり、消火をやって、一応消火のめどがついたところで、警報も鳴っているということもあって、それに引き続いて退避命令を出したという時系になっております。
だから、サイゴンが陥落するという、あれは四月二十五日でしたか、二十九日に退避命令を大使が出している。あの陥落する日の後になっていますね。そういうところへ軍用機を送っていくということではないんだ。ところが宮澤さんは、最初の提案のときには、そういうときに行くんだということを答弁もされたことがあるんです。 だから、この点は今言われているとおりだ。
しかし、濃度の濃い煙の中に入っている、熱も上がってくる、そこのところにいつまでもいれば必ずフラッシュオーバーが出て、そのフラッシュオーバーが来る寸前に退避命令を出さなければいけないわけです。ぐずぐずしていたら指揮官を含めて部下の職員も一緒に命を失うこともあるかもしれない。そういうぎりぎりのところで団体行動をする。
カフジの市当局からは全員の退避命令が出ておる、そういう状況の中で五時間退避壕におったわけでありますけれども、昼ごろになりまして、砲撃が少しやんだところで二十台の車に分乗して脱出を図った。最後の車には当時責任者、専務がいたようでありますけれども、その鉱業所の最高責任者が乗った。そして脱出をしている。そして夕方、タンマン市のホテルで一同全員が無事を確認した、こういうふうな経緯でございました。
例えば避難勧告、早く避難しなさいよという程度なのか、あるいはこれが例えば退避命令という非常にはっきりした形で権限をお持ちになってやれるものか。私は、その辺の情勢判断もあるんだけれども、実はその辺が非常に大きなかぎを握るんじゃないか、そんな感じがいたしまして、よく新聞その他で見ておりましてもわからない。
その一点は、現地でも実は会社側にちょっとお尋ねをしたんでありますけれども、当日事故発生が、十五時三十五分ごろ圧風が発生して、直ちに十五時四十分から四十三分にかけて退避命令を発動した。それで救護隊が十五時五十分に招集されたということですね。これは非常に速やかな態勢づくりができた、こう思います。 ところが、関係方面に通報を会社側がしたのは十六時二十分なんですね。そこに三十分の差があるんです。
その後直ちに、すなわち三時四十分から四十三分ごろにかけて全坑退避命令が発令されています。救護隊は三時五十分に招集され、五時から逐次入坑し、罹災者の救出に当たり、その結果、翌朝八時までに死亡者全員の坑口収容が完了しました。 次に、政府の対応等について御説明申し上げます。
それから、退避命令が早かったらこういうようにはなっていなかったであろうということが言われる。それから、例のCOマスクがもう少し整備されておったらどうか。それから坑内退避所、これがいわば退避所の役目をしていない。こういうところから、今度のこの調査報告書では少なくとも長期に籠居のできるような施設でなければならないというようなことを言っておるわけです。